日本サッカーとメディア

ドイツ大会も終わり、代表事情もアジアカップへと向けて変容して
参りました。
結局見事に前任者の責任追及は行われずに終わったわけですが。


オシムへとバトンタッチされた代表は、健全な方向へ向いたと見て
いいかなという所感。まあ初戦で言い切るのも若干早計ですが。
ジーコ時代にうんざりするほど散見した「意図の無いボール回し」も
取り立てては見られず、現代サッカーへ向けた方向修正が
進んでいるな、と感じる内容でした。


ただ、日本サッカー界として全く進歩を見せないセクションが有ります。
それはまさにいち早く情報を配給する側のサッカー報道。
誤解されないように言っておくと、サッカーを専門に取り扱わないメディアの事です。


日本敗退直後に報道されたドキュメンタリー特番でどこかの局がのたまったのは
こんな事でした。
ジーコが求める個人の自由な発想によって生み出される高いレベルのサッカーは、
日本人選手にとってはまだレベルが高すぎるものだったのだ」(大体こんなん)
開いた口がふさがらなかった覚えがある。
選手個人の闘争意欲が欠けていた?それは否定はしない。
しかし、実質ジーコのチームで致命的だったのはチームプランとプレーにおける
意識共有の絶対的不足である。
現代サッカーにおいて、と言うよりチームスポーツにおいての意識の共有は
絶対不可欠なものだ。
特にディフェンススタイルに関して共有が不足していた場合は最悪である。
ディフェンスラインを高く取りスペースをコンパクトにして効率的にプレスを
仕掛けて攻撃に繋げるか、もしくは引いて待ちのディフェンスをかけるか、
こんな事すらチームとして徹底させずに「各人の判断、自由」などという
無責任な論理展開を行う事事体、現代サッカーではありえない事である。
特に代表チームは年間を通し常時帯同しプレーを行えるわけではないので、
ジーコ様の仰るインスピレーションだけでコンビネーションを詰めるには
限界がありすぎるのだ。
結局選手たちも疑問符を背負いながらプレーしているように見えた。


若干愚痴になってしまった。
結局、前代表の報道において日本メディアはほぼ徹底してジーコ
神様として扱い、口清い台詞だけで煽り立ててそのまま全てを終えてしまったのだ。
お陰で妙ちくりんなサッカーファン層を増殖させてしまった事も腹立たしいが。
兎に角、煽った側の責任として、徹底的に協会を含めた責任の追及をメディア側に
期待したのだが、全く、さっぱり行われずに終わってしまった。
本来なら有り得ない事だ。


オシムに関しての祭り上げに近い報道も疑問を感じる。
彼が取っているチーム方針はほぼ現代サッカーにおける基本事項だ。
これしきの事でここまでオシムを持ち上げるならば、それを行わなかった
前任者についての追求を徹底的に行うべきだ。


何にしても、サッカー報道の質の向上は今後のサッカー界に於いて急務である
と言いたい。
報道する側の質、見る側の質、選手側の質。
これら向上なくして、今後の日本サッカーの成功は無いと言える。






あとではずかしくなったら適当に修正するかもしれない・・・